頭の中の引き出し

ある時代をいきたひとりのりんごの話。

過去の備忘録「心の強弱ってなに?」

 

 過去に書いたブログの記事から、サルベージしました。

 何かを見て、「心が強いとか弱いとか、決めるんじゃないよ」と思ったのだと思います。ですので、ここの話は「そういう体験談は、一つの例として参考になるよ」なんて言葉を想定していません。

 (突っ込みたい部分は多いけれど、加筆修正するのも勿体無いなと思ったので、そのまま載せます)

 

はじめに

 精神医学の端っこをかじっている身として、思っていることを学びと共に記録します。

 医学の起源は結構古く(どのくらい古いかというと紀元前3年(wikipediaで確認))、よくファンタジーや歴史(卑弥呼が筆頭かな)にあるように、呪術やまじないという形で存在してきました。

 そんな中で、現代医学は近代以降に生まれたもので、再生医療なんかを含めるとまだまだ若い、日の浅い学問でもあるわけです。身体の病に関しては。

 

 心の病──すなわち、精神の病に関してはもっと別で、実は具体的な治療法が見出されて30年も経っていないのです。

 びっくりする人と、へ〜という人と、どうでもいい人と、たくさんいるでしょうけどそんなわけで、よく言われるように、人間って見えるところより見えないところに対してはすっごく鈍感なんですね。鈍感というか、どうしようもないから切り捨てるか、切り捨てないかでいうと切り捨てる人が多いかなっていう。(すごいざっくりな分け方をしました)

 

「私」ができるまで

 人間は幼児の時に生まれて、脳がふやふやで、自分が「自分」という個である状態を認識するのにも少し時間がかかるし、周囲の住環境や自分に関わってくる人、自分の近くに生きている人、関係ない人の区別がつくのにもたくさんの学習が必要なんですよね。

 大きくなるにつれて、そういった処理は当たり前のものとして定着するから、今度は数学だったり国語だったり、人間が生み出した創造物のある世界(社会)で集団の中で生活する個として生きていくための術を学んでいく。

 

 でもね、この術、人によって千差万別ある上に、学習環境や住環境にどういう人間が集まるかで、学ぶことも学んだ結果も変わってくるわけです。

 

人間はブラックボックス

 人間は、同じパーツを持っているけど、その中で行われる化学反応はブラックボックスな上に、各人の周囲にあった事実出来事を通じて学んだ情報や感覚が判断材料として使われるから、もう出てきた答えって同じものにはなれないんですよね。

 そして、この「ブラックボックス」はなんてことない黒の箱じゃなくて、やわらかいふよふよした豆腐みたいなものでできてる。これを人は脳ともいうし、心とも呼んだりする。

 

 豆腐というと、絹豆腐と木綿豆腐ってありますよね。人間の心(あるいは脳、以下省略)も、そういうもので、しかも二種類だけに分かれてない。

 ブラックボックスに入力されたある行動が、その人の心を壊したり傷つけたりすることもあれば、なんてことなく弾き返すことができる人もいる。

 

 ここら辺の話は、現代人であればみんな一様に理解していることかな、と思います。

 

 ただ、重要なのは、この「一様に理解している」ことが、現代だから、というわけではないということかなと。

 

例:有名と無名

 歴史を辿ると、人の名前は出てきますよね。でもあれ、目立った人だけの話なんですよ。今日で言えば羽生くんとかね。(羽生さんもいるか)

 じゃあ名前の残らなかった多くの人はどうなの?ってなりません?それを知るために当時流行った本なんか見ると楽しいかもしれませんが、私はそこまで専門家ではないのでさらっと流すとして、

 要するに、目立つものがいれば必然的に目立たない人がいる、ってことですよ。

 凸があればそれ以外のところは平坦かもしれないし、凹になるかもしれない。そんなことは、言われたらわかるけど、人間と関わっている時までは意識していられない。当たり前だ、「みんな一様に理解している」のだから。

 

 みんな一様になんなり経験はしているけれど、その経験の形は一様ではなくて、それ故に理解の形は異なっている。

 本当はここまで具体的に砕いて理解した方がいいのかもしれないけれど、かといって、人間と接する時にいちいち気にしていたら脳の処理が追いつかなくなってしんどくなってしんでしまう(かもしれない)。だから結局は、みんな薄々気づいていて声をあげているけれど、それが具体的な形として定着することなく生きて死んでいく、のじゃなかろうか。

 

 

「心」に物差しは必要か?

 そんな話をしていると、「心が弱いから負けるんだ」「心の強さで勝ち抜きました」なんて言葉が少しバカバカしく、かなしく聞こえてくる。

 心は相対的でも絶対的な評価にとらわれない、ブラックボックスで、豆腐みたいなものだ。自分を基準にしていたら、弱いと言える人もいるが強いと言える人もいるだろう。

 けれど、「だから」、なんだというのだろう。

 心が弱いから、こういう職場には行かない方がいい。

 心が強いから、こういう場に強い。

 確かに周囲からしてみればそういえることは、そう分類できることはたくさんあるだろう。自分を観察者としているから。

 自分が、そことは関係のない位置にいるから。

 

 だから、なんだ?

 

 いや、中には自分も似た環境・境遇にいてしんどかったが生き延びた、なんていう人もいるかもしれない。そう言いたい気持ちもわかる。どうすればいいかも、生き延びたその人ならわかるかもしれない。

 でも、よく考えて欲しい。

 似ていても、同じ状況は一度として生まれないということを。同じ人が、同じ場所に立っているわけではないということを。

 

 誰一人として、同じ環境で生きて育つことはできない。

 同じ場に居ても、同じ人たちと関わっていても、所詮は「わたし」と「あなた」くらいの境界線があり、基盤の違いがある。

 

 そんな中で、心が弱いだの強いだのと、無意味な言葉を意味のあるように使わないで欲しいな、と最近思う。

 もちろん、これすら、私のただのいち意見にすぎない。

 これに反対する人もいれば、傍観する人もいるし、賛成する人もいる。

 

 人間はそうやって生きてきたし、死んでいく。

 同じ人間であれば飽きるようなことも、違う人間だから繰り返していける。

 今この言葉を書いている私も、人間らしく、繰り返そうと思う。

 

 

 この途方もなく永遠に解決されることのない嘆きとかなしみを抱えて。